ダメ日記

30代の残念な感じの女性社員の日記

娘である私が言うのも何だが、父はいわゆるエリートコースの人生を歩んでいる人物だと思う。正確にいえば、途中までは順調歩んでいたのだが、最後に持ち前の運の悪さでそれが多少狂ってしまった。それでもサラリーマンとしては、成功している方だと思う。
父 は信州生まれ。姉が一人いる。東京の棒私立大学に通い、卒業後に上京。母に会って30代ちょっとで結婚。30年間商船会社に勤めた。娘から見ると、 努力家でまじめ、教育熱心で家族思いのいい父なのだが、少し短気で自分勝手なところがあるため、そこまで友人は多くないようにみえる。そして運が悪い。

私が高校生のころ、毎晩のよに近々海外支部の社長を任されるかもしれない、と楽しそうに話していた。受験のほうが心配だった私はハイハイと適当に聞き流していたが、今思えば、30年間サラリーマンとして我慢し続けた父にそれはとって企業に入社してからの最終ゴールだったのかもしれない。

海 外支部の社長になることがいよいよ現実になりそうなとき、世界的な大不況がおこった。父は荷造りをはじめ、ソファは日本においていくべ きか、テレビあたらしい物を買うべきかと悩んでいたときの出来事だった。詳しい事は分からないが、父の勤めていた企業も経営が悪化、海外支部社長の話は無しになり、その企業の下請け会社に異動になった。母曰く、給料もガクッと落ちたらしい。

それから毎晩お酒を飲みながら、「お父さん、海外支部の社長になるはずだったの に、、。」という話を聞かされた。


父は、お金を貯める事が好きな割に、お金 が貯まらない。ファイナンシャルプランナーの資格をとるほどお金が趣味である。「おすすめの本ない?」と聞いたとき「金持ち父さんと貧乏父さん」 の本を渡された。株をやっているが、2007年のリーマンショックで相当な額を失ったらしい。どんまい。


異動のことでかなり落ち込んだ父だったが、次の年運搬企業同士を繋げるネットワーク的な会社を立ち上げることに専念して、少し元気を取り戻した。新しい会社を盛り上げようと、世界中からビジネスマンを呼び、京都での初会合を計画するのにはりきっていた。

あるとき、英語でスピーチをしなくてはいけないらしく私に文法や内容を見てほしいとメールしてきた。「オバマさんのように、ユーモアをいれつつ、かっこいいスピーチを頼む。」と無理な注文。この会合は京都新聞を含め、6つの新聞会社に記事が載ることになっていたらしくウザいくらい張り切っていた。会合は2012年4月9日。


4月11日は東北大震災があった日。当然、新聞は地震のことでいっぱいで、会合のことは6つの新聞ではなく2つの新聞に小さく乗っていた。広 告かと見間違えるくらいのすみっこにある小さな四角形に収まっていた。震災被害者を考えると、それくらいの扱いで当然である。だけど、父の今まで人生、ちょっといいこと→はしゃぐ→裏切られる→ちょっといいこと→はしゃぐ→裏切られ、、、の流れが毎度同じで少し笑える。

父の不運は、私にとってしょうしょう幸運だったりする。高校生のころ、父は私が芸術の方向にすすむのをいやがっていた。 「芸術じゃ稼げないよ」「芸術は趣味にしたら?」とよく言われ、家を出たくて仕方がなくなり、海外の大学に入学したりした。最近はそ芸術に反対するような事はまったくいわなくなり、 むしろ「自分の人生、好きなようにしなさい。」というようになった。年齢のせいもあるかもしれないが、ずっとまじめに働き続ければ、安定した地位と収入が 得られると信じさせられたバブル期時代の神話に裏切られ、そんな神話を信じることに意味はない、どうせ辛い思いをするのなら、好きなことすればいい じゃないか、という考えに変わったからだと思う。近頃は、父に「どんな作品つくっている?」とか、「同僚が展覧会やっているんだけど、この絵どうおも う?」と聞いていたり、芸術に興味をもってくれるようになり、以前より仲良くなったと思う。

父と1年ぶりくらいにボストンで会い、私が「そういえば「金持ち父さんと貧乏父さん」の著者が破産したね。」と言うと「そうだな。やっぱりあんなのが上手くいくわけないんだよ。リスクが高すぎる」と、以前私にあの本を読めとすすめてきたことをすっかり忘れていた。

と、ここまで少しふざけて文章を書いたが、自分は贅沢せずに、母、私、弟、妹、を一人で養ってきて、私のような糞甘ったれでお金にならない訳の分からない芸術という学問を学ぶために大学院まで行かせてくれた父には、本当に感謝しており、尊敬している。